アムナグス語録





 1.  夢
 2.  神について
 3.  形而上学は終わったか
 4.  白紙と消しカス
 5.  最究極の哲学
 6.  宇宙の五大事件
 7.  アムナグスの救済宣言
 8.  サーカスのロバの足し算
 9.  全生命の変化について
10. 最大かつ最小
11. 神秘体験、蒸留、酸化還元
12. 存在同一性障害
13. Absoluticsの基本戦略
14. 論理空間にぽっかり開いた穴
15. 究極目的を実現するためにすべきこと
16. 終わりが始まり
17. すべての終わりについて
18. 神以上
19. Absoluticsによって何が始まるのか
20. 実現





夢? 叶うかどうか分からないけれど、存在者であることを超越することかな。


高校生のとき進路を聞かれた際の答え (AsA 12 など参照)。





Interviewer: 神についてどう思いますか。

Amunagus: 世俗的なことにはあまり興味ないので…。


アムナグスにとっては、「神」すら、聖俗という区分のうち後者に属するテーマだったのだろう (AsA 7 など参照)。





I: 形而上学は終わったのではないですか。

Am: 始まってすらいないのに?


相対性、制約性、条件性、依存性、相関性、媒介性、文脈性、多様性、多角性、多面性、多層性、多元性、…といった限界が人間のあらゆる場に通底し遍在することが指摘されて久しい。 これら有限性の自覚を十分に備えた者なら、もはや(強い意味での)形而上学など試みないだろう、というわけだ。

アムナグスとて、これら有限性の自覚を持っていなかったわけではない。だが、彼にとって、それらの自覚は何ら絶対の探求(≒形而上学)を諦めさせるものではなかった。アムナグスからすれば、絶対の探求はそれら自覚と両立する。いやむしろ、それらの十分な自覚によって初めて絶対の探求が始まるのである。

よってまた、アムナグスに言わせれば、本来の(強い意味での)形而上学はAbsoluticsと共に始まる。 ただし、後に見るように、Absoluticsそのものはやがて形而上学を逸脱していくわけだが (AsA 11 など参照)。




I: 真に究極的な哲学を表現しようと思ったら、結局は“白紙”に行き着いてしまうのではないですか。

Am: 確かに。“白紙”は二番目に究極的な哲学と言っていいでしょう。


東洋思想においては、「知る者は云わず、云う者は知らず(老子)」ということは一般常識である。 いわゆるneti, neti, . . . (ウパニシャッド)の伝統である。 また、表現が重視される傾向にある西洋哲学の諸伝統においても、古くはプラトンが(一冊も 残さなかった師を見習うことなく)多くの対話編を著したものの、究極の哲学について語る ことは自分には不可能だと認めたし、トマスは『神学大全』を始めとする膨大な著作を積 み上げた挙げ句、自分の“見た”ものに比べれば自分の著したものは藁屑のようなものだ と晩年に述懐したという。そして、ヘーゲル語を駆使して絶対知に到達したと高らかに宣 言したヘーゲルでさえ、自身の著作に決して満足できなかったし、一方、哲学的問題を 全て解決したと豪語した前期ヴィトゲンシュタインに至っては、その著作の結末で今まで の記述は全部ナンセンスだと開き直る始末である。哲学史を紐解けば、殿堂入りのス ターたちでさえ万事この調子である。

アムナグスは、このことをもって、「いかなる哲学者であれ、さあ自らの哲学を開陳し てみろと言われて真っ更な白紙を与えられ、何かを書き始めた途端、どうあがいても“白 紙”を汚してしまう」と言っている。“白紙”のみが歴史を超越しているので あり、よって、「歴史を大幅に書き換えるに過ぎない者」、「世界史年表に消 しカスを投げれば当たる程度の大天才」、「驚異的に秀れているだけの人た ち」には、仮に“白紙”に接近できたとしても、それを越えることなど覚束ない、 というわけである。

だがここで、アムナグスの「二番目に究極的」という言葉に注意すべきだろう。 おそらく彼はここで、自分の哲学は史上初めて“白紙の壁”を越えた、と告白 しているのである。彼にとって、長いあいだ“白紙”はライバルだったよ うである。だが、<自らの究極性を自己保証するような特異な理念の創出と、 それによってのみ可能となる勝義の自己実現> というAbsoluticsの着想を得ることで、その著作Absolutics によって彼はそれを越えたと確信するに至る (AsA 10 など参照)。

次のやり取りも、彼のそのような確信なしでは決して生まれえなかったものだろう。





Interviewer: あなたが最究極の哲学を創造したというのは本当ですか。

Am: ええまあ。

I: しかし、最も究極的と断定するには、2600年以上の哲学の歴史はあまりに長すぎるのではありませんか。

Am: 確かに、私の哲学が人類史上最も究極的だという言い方はミスリーディングだと思います。私自身、そのようなことを言ったことがあるかもしれないが、この機 会に訂正したい。

I: 検証できないことについては断定を控えたいということですね。

Am: その逆です。Absoluticsが歴史上最も究極的だという言い方は、事態を矮小化してしまうということです。
Absoluticsは、あらゆる可能な世界において最究極なのです。 また正確には、Absoluticsは最究極の哲学と言うべきでもない。それはおよそ最究極の行為ないしプロセスなのです。


どこまで本気で言っているかは解釈次第だが、ここで言われているのは、文字通り受け取る限り、次のことである。 即ち、アムナグス哲学、つまりAbsoluticsは、過去(たとえばAsA 8)のみならず全未来永劫にわたる哲学史において、 いや人類のみならず、全宇宙に存在するあらゆる知的生命の創造するであろう全哲学史の中でさえ、 いやさらに、およそ論理的に可能なあらゆる宇宙におけるあらゆる哲学者の創造するであろうあらゆる可能な 哲学の中で最究極だ、ということであり、そしてさらには、それはそもそも「哲学」という名称を越えて最究極なものだ、ということである。

途方に暮れさせる言葉である。いったい、何がどう最究極だというのか。その根拠は、 その基準は何なのか。またそもそも、「最究極」とはどういう意味なのか。次のさらなる 奇妙奇天烈な言葉を見てみよう。





宇宙の五大事件は、1. 宇宙の誕生、2. 生命の出現、3. 知的生命(精神)の出現、4. Absoluticsの実現、そして 可能的には 5. 全知全能オメガポイント(Omega Point)の実現である。

このうち、四番目が最大の事件である。そしてこれは、この宇宙のみならず、あらゆる可能な世界における 最大の、そして目的論的に言えば最後の事件である。


戯れの言葉には違いなかろうが、それにしてもレトリックや冗談 が過ぎるのではないか。まして、もし本気で言っているなら、その誇大妄想度、傲慢不遜度は要入院レベル だ。――それが、この言葉を目にしたときの第一印象であろう。

だが、またもや解釈次第だが、アムナグスはこれを全くもって正気かつ本気で口にしたのかもしれない。 いや、それどころかこれは、彼にとってはごく当然のことを何の衒いもなく率直に発した セリフに過ぎないのかもしれない。そしてこのことは、Absoluticsという営みの本質を垣間見さえすれば ――たとえば、「究極目的」という理念、その実質を規定する「絶対」概念、 そしてそれを目的とし実現しようとする過程としてのAbsoluticsの理念と いった、概念ないし理念レベルのみに焦点を当てただけでも――十分ありうる解釈なのだ。

即ち――以下すべてアムナグスに言わせれば――まず、Absoluticsにおいて遂行される「究極目的」と いう概念設定において初めて、我々の究極性への要請一般は、その 最極における整合的な意味を必要十分に獲得する。つまり、この概念ないし理念創造に よって、およそあらゆる生命、主体にとっての、原理的に最終的な充足をもたらす もの―― これのみがあらゆる可能な輪廻からの文字通りの“最終解脱”であ り、論理的に最究極の“救済”であろう――が秘めやかに、だが画然と確定されたことになる (AsA 7, 9 参照)。

次に、Absoluticsにおける「絶対」の概念規定において初めて、 究極目的はその実質を得る。つまり、この概念規定によって、いわ ば全宇宙、全可能世界の特異点が音もなく形成され始めたわけである(AsA 8, 9, 11, 14 参照)。

さらに、アムナグスは、その「究極目的」たる「絶対」を実現する過程として "Absolutics"という理念を導入する。この理念導入において、“究極の営み”の開始が高らかに、だが謐かに告げられる… (AsA 7, 15, 16 参照)。

ここで特に注視すべきは、知的生命の誕生以来、あるいはおよそ宇宙開闢以来初めて、 <究極目的>に対して実際に目的関係が設定された、ということである。 このことがもし本当なら、究極目的を実際に目的としたというこの一事実のみでも、確かに未曾有の珍事件 には違いあるまい。

ましてや、万が一でもその当の究極目的が実現されたのだとした ら、確かに最大かつ最後の事件に違いあるまい (AsA 18 参照)。

なお、このように「究極目的」とか「目的論的」などと言うと、あたかも Absoluticsがいわゆる目的論の類いを前提しているかのようだが、決してそ うでないことには注意されたい。Absoluticsは、伝統的な有神論や目的論 に見られるような、何らかの客観的な生の目的や意味があるとする実在論の 類いを何ら前提していない。Absoluticsは、たとえばそのような実在論と正反 対と言える自然主義的な世界観の下でも何ら問題なく成立する。そ もそもアムナグスによれば、Absoluticsは、その理念からしてあらゆる可能世界におい て成立するように創られているのであり、目的論や機械論といった 世界、宇宙、生命、知性の特定様相など前提すべくもないのである (AsA 13 参照)。

実際のところ、Absoluticsでいう「究極目的」は、何処かに転がっているものを我々 が発見するものというよりも、我々自身が(それを目的とすることに おいて)いわば創造するものなのである (AsA 9, 14, 15 参照)。

では、その創造はどのような意義を持つのだろうか。次の珍奇な問答を覗いてみよう。





Interviewer: あなたは聖者なのか。

Amunagus: まさか。それでは中途半端すぎます…。


たとえば、救命救急により命が助かるということは、助けられた者にとってまぎれもな い救済の一つだと言える。 そして救命救急という行為は、「日々の生活手段をどうするか」とか「生きがいは何か」 ということがその最中には問題とならないような、最も緊急度が高い、言い換えれば“最も近い”「最初の目的」を形成 している。

だが、このことは同時に、救命救急により命が助かっても、生には「その先」があると いうことでもある。 つまり、とりあえず命が助かるという段階をクリアーしても、次の段階ないし目的として 「生活手段」などの問題があるわけだし、 さらにその段階をクリアーしても、次の段階ないし目的として「生きがい」などの問題が 生じる、…といった具合である。

このとき、“最も近い”「最初の目的」を目指すのが救命救急だとするなら、いわばそ の正反対に、“最も遠い”「最後の目的」(the ultimate end)を目指すのが Absoluticsにほかならない。Absoluticsが求めるのは、原理的に最終的な、 言い換えればあらゆる可能な世界において最終的な目的にほかならない。

可能的には、いわゆる聖者の役割は、救命救急とAbsoluticsとの間の膨大な領域にある。 よって聖者の役割が、各々の段階ないし目的に応じて重要である、ないし重要でありうる ことに疑いはない。 だが同時に、救命救急により命が助かっても、「その先」があるように、 たとえ聖者によっていかなる救済を受けようとも、まだ「その先」がある。そしてその過 程は、“最終的救済”に至るまで、決して停止することはありえない。

実際、もし“真の救済”が、これ以上のいかなるレベルにおける救済も必要ないという 意味での 最終的な救済でなければならないとするなら、真の救済は、あくまで究極 目的の達成においてあるし、 またそこ以外のどこにもありえないと言わなければならないだろう。上のアムナグスの言 葉はそれを表現し、 自らのAbsoluticsにおける最終的な救済を宣言したものにほかならないのである。

“奇跡”を用いて救命救急を行なうと称する聖者は数多い。だが人類の歴史上、 いかなる聖者も、「最後の目的」(the ultimate end)を 達成していないのはもちろん、厳密にはそれを求めてすらいない。確かに彼らの多くは「 最終の境地」とか「究極の次元」といった言葉を常用する。だが、それらはアムナグスの 言う「究極目的」とはほど遠いものである。 たとえば、人類史上最も有名な聖者の一人イエスによれば、全知全能の神に授かり永遠の命 を得ることが我々の究極目的である。 だがその場合、その永遠の命は未だ決して神そのものではない限りにおいて、その 先にあるものは何か、即ちその当の永遠の命にとっての目的は何か、ということが問われなければならないはず だが、彼は決してそれが何かを明らかにしない。 またさらに、神そのものも、何らかの“行為”をし何らかの“意識”がある限りで何らか の“目的”があるはずだが、“神の目的”が何かということも何ら明らかにされない。それどころか、彼はそのよ うな問題意識さえ基本的に抱いていないのである。 また、同じく著名な聖者である釈迦(ゴータマ)も、現世の生の問題を処理すること を重要視し、「その先」を問うような形而上学的思弁を戒めたのであった。

結局、「生の究極目的は何か」という問題は、ほとんどの者にとって、実際には深刻な ものとはならない。 そのような究極目的を云々する前に、その都度の相対的な「目的-手段」の連鎖にかかずりあい、そのうちに有限な生は終わっ てしまうからである。 「究極目的」の問題など“敬して遠ざけて”おけばよい対象だ、というわけである。 これは、イエスや釈迦のような聖者にとってすら同じだった。だが、アムナグスにとって は事情は異なった。 彼にとっては、生の究極目的という問題こそが真に取り組むべき課題なの であり、それに比すれば、その途中段階におけるいかなる可能な生の相対的諸問題も、(一現象としての 自分自身も含めた)各々の生命がその都度しかるべく反応すべき課題でしかなかったのである。





I: 2500年以上にわたる従来の<絶対の探求>とAbsoluticsでは、どこが最も違うのですか。

Am: Absolutics以前の<絶対の探求>は、絶対を実現していないどころか、 そもそも絶対を求めてすらいなかったのです。


<絶対>を求めようとしてきたのは、何もAbsoluticsだけではない。言うまでもなく、 古今東西の様々な形而上学、神秘主義、その他の営みが常にそれを試みてきた。 実際、アムナグス自身は、ヤージュニャヴァルキヤ、パルメニデス、プラトン、アリストテレス、荘子、 ナーガールジュナ、プロティノス、プロクロス、偽ディオニシウス・アレオパギタ、ガウダパーダ、 シャンカラ、エリウゲナ、イブン・アラビー、トマス・アクィナス、マイスター・エックハルト、 ニコラウス・クザーヌス、モッラー・サドラー、デカルト、スピノザ、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、 ウィリアム・ハミルトン、G. カントール、F. H. ブラッドリー、フッサール、西田幾多郎、 オーロビンド・ゴーシュ、ラマナ・マハリシ、テイヤール・ド・シャルダン、フランクリン・メレル・ウォルフ、フランク・ティプラー、 ケン・ウィルバーらを自らの先駆者に挙げている。

だが、<絶対>を実際に求めるためには、何よりも、その当の目的であ る<絶対>が何かを明確にしなければならないはずだが、アムナグスに言わせれば、 このような例をAbsolutics以前の人類史の中ではただの一つも見つけることができない。Absolutics以前のいかなる絶対 者の探求も、明確な「絶対」概念の把握がなされないために自らがそもそも何を求めてい るかの明確な自覚が欠けていたのであり、そのような行き当たりばったりの試みでは、そ れをいくら続けようとも、真正の絶対者の探求など望むべくもなかったと言うしかないの である。「自分が何をしているのかがよく分かっていないという点で、人間にとっての絶 対の探求は、サーカスのロバにとっての足し算と同じだった」とアムナグスが喝破する所 以である。

絶対の探求が、Absolutics以前とAbsolutics以後に分けられる(とアムナグスが考える)一番の根本理由はここに ある。即ち、Absoluticsにおいて初めて、その最も根本的な相において絶 対性の概念一般が明確に定義され、そのことによって、“それ”を求める営みが自覚的に得られるに至った、 というわけである。

だとすれば、まさにAbsoluticsによって、文字通りの絶対の探求が生まれたのである。





Absoluticsの理念創造において、過去から未来に至る全宇 宙の全生命が、いやおよそあらゆる論理的に可能な全生命が変化した、と言えなくもない。


いったい何が言いたいのか。今度は何の冗談なのか。現在の宇宙はとも かく、過去や、ましてやあらゆる可能世界が変化するわけはないのだから、この言葉は当 然比喩だろうが、それにしても何の比喩なのか。

だがまたもやこれは、アムナグスからすれば、いかなる冗談や比喩でも何でもない、まぎれもない事実を(若干 レトリカルとはいえ)淡々と表現した言葉にほかならない。

「究極目的」の定義を思い出そう。
究極目的(Ω): x=Ω =df y(yEx) ∧ ¬◊∃z(xEz)
究極目的の条件の一つは、それに対し目的関係が存する、ということである。Ωは、 目的とされない限り、そもそも究極目的ではない。つまりΩは、目的とされて初 めて、究極目的として機能し始めるわけである。

ところがここで、目的関係Eに推移性
xyz ((xEyyEz) → xEz))
を導入する限りで(Absoluticsにおいては、目的関係に推移性は前提され ないが、ここでの推移性の導入はごく自然な解釈で あろう)、Ωが目的とされるとき、またそのときのみ、あらゆる可能な主客関係(つまりはあら ゆる可能な生命)がそれに対して目的関係を有することになる。即ち、実際には
x (xEΩ) → ∀sx ((sSxx≠Ω) → xEΩ)
なのである。

このことを歴史的に言い換えるなら、Absoluticsの理念創造において、すなわち 実際に究極目的に対して目的関係が設定されたその 瞬間に、究極目的が端的に創造されたのであり、その瞬間に、一挙 に全主体の目的関係が 設定された、ということになる。よって、その限りにおいて、論理的に可 能な限りの全主体においてその設定がなされたのであるから、この瞬間に過去、現在及び未来の、いや 可能世界の全生命が 変化したという言い方もまんざら大法螺とは言えないのである。そして、少なくとも人類 史においては(むろん地球外知的生命については分からない)、それは明らかにアム ナグスのAbsoluticsにおいてなされた出来事であった。

そして彼によれば、このことを可能にしたのは、正確な概念規定や実質を伴わないいかなる曖昧な <究極目的を求めよう>という姿勢でもなく、ただ端的に、「究極目的」の設定とその実 質規定、及び「絶対」への目的関係の設定――即ち「絶対」概念の設定とその指示対象の 確定とその実現の意味設定――にほかならなかったのである。





私の「絶対」概念は、“minimum Absolute”であり、かつ“maximum Absolute”である。


アムナグスによれば、彼は、とりあえず一切を相対的と仮定してみるいわゆる方法的相対化の下、その外延(絶対性の領域)に関して徹底して “minimum Absolute”を遵守した。だが、それと同時に、その内包(絶対性の意味)において はあくまで“maximum Absolute”という理念を掲げた。もちろん、そもそも後者の理念要請 があるからこそ、前者の方法論が採用された。つまり、“maximum Absolute”を実現すると いう概念設定においてこそ、またそこにおいてのみ、我々の究極目的が実現されうる営み が設定され得たのであるし、同時に一方では、“minimum Absolute”であることによっての み、そのようなmaximumな絶対性が絶対性たりうるための条件である“絶対性の絶対性” が確保され、それによって独断的形而上学との謗りを免れえ、ひいては絶対の探求が正当に実現され得た わけである。

ここでとりわけ、その是非や評価はとりあえず別としても、この“maximum Absolute” である絶対者(A0)の規定としてのA1性については、それに関わる全てのレベルにおいて哲学史上特例尽くしの要素が見られる ことに注目すべきであろう。まず第一に、その概念の設定において既に、ある種パラドキシカルな状況が生まれていた。 即ち、その「                               」という意味は、                                                     という、概念の意味としてはこれ以上ないほど特異なものであった。このような特異な状 況設定の下、次にその絶対者の内実設定において、またもやそれが                                                       にほかならないという奇妙な状況が開示された。そして最後に、その実現というこ とにおいて、そのパラドキシカルな状況は頂点に達した。                                という、およそ考えうる限りで最も異常で不可能であろう事態がそこに おいて表現されたのである。そして、これら全ては、とりもなおさず、当 初の究極目的としての「絶対」の概念設定において先取的に提示されていたことだったの である。

「無限」概念の歴史は、カントール以前とカントール以後に分けられることが多い。古 代ギリシャ時代から長い間、実際には存在しえないもの、ともすれば比喩的表現にすぎない ものとして扱われてきた「無限」は、19世紀のカントールの集合論の出現によってはじ めて明確に定義され、その存在と特徴が厳密に理論化されうるに至ったのである。同様に、 「絶対」概念の歴史は、アムナグス以前とアムナグス以後とに分けることができよう。「絶 対」概念は、古来から哲学、形而上学、宗教、神学、神秘主義などの分野において根本的 な役割を果たしてきながらも、同時に幾多の批判者から、「無限」概念同様に、いやそれ 以上に不明瞭な“言葉の綾”のようなものとされてきた。実際、ウパニシャッド以来、あ るいはアナクシマンドロス以来数千年の間、<絶対>は、基本的には神秘体験か曖昧な思 弁以外にはアプローチの仕方を生まず、その結果「無知の知」という開き直り、もしくは 「言表不可能」という言表(つまり“白紙”)以外には何の実質的成果も生まないに等しかっ たのである。 21世紀におけるアムナグスのAbsoluticsの登場によって歴史上初めて、こ の「絶対」概念は厳密に導入され、その存在と本質が明らかにされ得たわけである。

もっとも、この両者の概念革命を対比する際に見逃してはならないことが一つある。そ れは、「無限」概念の場合、カントールを始めとする数学者たちによって明確化され幾多 の数学的な成果が得られることによってかえって、その概念に元来内包されていたはずの 神学的、形而上学的要素が捨象、ないし弱体化されたという批判が絶えないのに対し、ア ムナグスの場合、少なくともアムナグスの理解者を自称する側からすれば、 「絶対」概念が持っていた独特の意味要素――その究極性、根本性、 形而上性、超絶性、完全性、神聖性など――は、明確化されることによって捨象、弱体化 されるどころか、むしろ逆に、歴史上比類なきまでに、その意味が純粋に抽出、強化され、 ひいては創造された、ということである。 ここに、彼の「絶対」概念固有の特 徴がある。

では、そのような特異な概念はどのようにして誕生したのであろうか。次の言葉が参考 になる。





私は「絶対」の概念を、神秘体験によって得た。


アムナグスは、少なくともある意味ではアリストテレスやスピノザやヘーゲルらの如く 形而上学者である。だが同時に重要なのは、彼がやはりある意味ではプロティノスやシャンカラやラマナらの如く 神秘家でもあるという事実である。実際、アムナグスがもし神 秘家でなかったなら、たとえばその「絶対性」の概念は創造されなかったであろう。これまた解釈次第ではあるが、それは、 そのいずれの相においても、人類史上現れた絶対性の意味要請を包括純化することによって完成させつつも、 同時にそれらを徹底しすぎるあまり、凌駕逸脱していると見ることができる。 特に、「A1性」の概念は、その一見論理矛盾とも言える、異常なまでの意味内容からして、論理的思考だけでは、そ れをいかに極限まで突き詰めようとも、決して生まれえなかったであろうと推測される。 それは、ある種の神秘体験の極致と、それを凝縮し蒸留させる力が最大限に同時に働かな ければ決して到達しえなかったであろう。

他のいかなるものとも根本的に異なるような、勝義の究極性(ultimacy)への要請こそが、 一般に絶対性を絶対的たらしめるものであり、アムナグスはそのような要請を最大限に生 かすものとして「絶対性」の概念を明確に設定した。容易に見て取れるように、この「絶 対性」の概念の一般的な要請は、それ自体としては、「絶対性」の概念を「勝義」や「究 極性」という概念を用いて言い換えた循環定義にほかならない。また、この要請から派生 した「絶対性」の再帰的な定義も、あくまで循環定義である。

実は、これらは論理的に構成された定義というよりはむしろ、直観的な意義内容の把握 と言うべきなのである。アムナグスによれば、ある種の神秘主義は絶対者の把握ないし実 現を目的とするものの、神秘体験で実際に得られるのは、絶対者そのものではなく(それ は、Absoluticsの過程全体を通してのみ実現される)、むしろ<絶対>の概念に関するヴィジョ ン、洞察にほかならない。だが同時に、その洞察はそのような神秘体験によってのみ得ら れるものなのである。そして彼自身、その神秘体験を通して得た洞察を蒸留することに よって、この「絶対」の直観内容――勝義の究極性――を得たわけである。

では、このようにして要請されるアムナグスの「絶対」概念は本当に究 極的と言えるのか。当然出されるであろうこの疑問は、この当の概念要請により、遮断され無意味となっ ている。ちょうど「無限」概念が、「何が最も大きな数か」という問いに対し設定され、 「本当にそれより大きな数はないのか」という問いを無意味にするように、「絶対」概念 は、「何が最も究極的なのか」という問いに対し設定されているがゆえに、「本当にそれ より究極的なものはないのか」という問いを無意味にするのである。それが、この「絶対」 概念の意味の直観把握の中身である。これこそは、歴史的にも、<絶対>に付与されてき た、あるいは少なくとも付与されることが意図されてきた内容にほかならない。

だが同時に、単にこのような直観把握のみでは、次のような問題も生じる。即ちまず、 それがそもそも整合的なのかという疑問である。これは「絶対者」や「無限」のような概 念に関しては、影のように常に付きまとう疑問である。アンセルムスが神を「それより大い なるものが考えられぬもの」と定義したり、トマスがそれを"esse a se"だと宣言したり、 デカルトがその「完全性」の程度を人間のような不完全な存在者からは生まれ得ぬものだと描写したり、 はたまたプロティノスが一者を「一切を越えたもの」だと喝破したり、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの賢人が ブラフマンはnirgunaだという呟きを洩らした際、確かにそれらはある 種のただならぬ直観の表明であったろう。だが、果たしてそれらは整合的なものであり得 たのか。あるいは、より適切に言うなら、それらの直観は整合的な表現を得られたのか。こ のことがまず何よりも問われなければならない。

それに加えて、次のようなより厄介な問 題がある。即ち、ちょうどカントールが「無限」概念について明らかにしたように、無限 が最も大きいものとして設定された際も、複数の(しかも無限に多くの)無限があり、ある 一つの無限より大きな無限が存在するように、上述したような究極性への概念要請が設定 される際にも、複数の絶対的なものがあるかもしれず、しかもある一つの絶対的なものよ りさらに究極的なものが存在するかもしれない、という疑問である(アムナグスによれば実 際その通りである)。 これらの問題が生じてしまう以上、結局は、上の直観的把握をあく まで構成的に定義しない限り、「絶対」概念を正確に把握したとは言えずじまいなのであ る。

では、そのような<絶対>に関わる直観的把握は、構成的に(非循環的に)定義されうる ものなのか。前史的に見ると、それが真正の神秘体験を通して得られたものであればある ほど、その可能性は常に否定されてきた。それは全く言表不可能である、と。だがアムナ グスは、歴史上初めて、この直観内容を一般的に要請されている「絶対性」への要請、及 びその再帰的な定義として真空パックし、かつそれを満たす概念内容を規定することによって、 そのことを試みる。<絶対>に関する直観内容から「勝義の究極性」という凝縮された表現を 得たこと自身に、既にヘーゲル論理学さえ中途半端せしめるようなアムナグスの独自の方向性が 見られるものの、その場を越え、それを構成的に(非循環的に)規定し、その規定によって“論理を 越えたものの論理”を確立しようとしたことにこそ、その真骨頂があると言うべきであろう。そして、その際の徹 底性は、その蒸留によって、西洋形而上学の伝統における絶対者(神)をほとんど「大人のため のサンタクロース」という名の残留物に、また東西の神秘主義の伝統の多くを 高級なマスターベーションへと酸化還元させてしまうほどのものなのである。

このような「絶対」の概念は、神秘主義的ベクトルと形而上学的ベクトル とが、最高密度で、まるでブラックホールの如く終局の一点に至るまで凝縮されるとい う、(その善し悪しは別として)はなはだ稀なる出来事によってのみ創造され得たものであったろう (実際、「ブラックホール」の比喩はアムナグス自身によって随所で使われている。たとえば、AsA 14)。

一般に、どんな根本概念を使用するかで、その哲学のレベルを推し量ることができよ う。不適切な概念を使用している限り、それらをどう組み合わせようとも、そこからはそ のレベルを越えたものは永遠に生まれない。かつてアムナグスは、Absoluticsにおける「|R|」概念の設 定を形而上学における0の発見に相当するものだと淡々と豪語したという。その他、アム ナグスによる「究極目的」、「絶対性」、「主客関係」といったAbsoluticsの根本を成す 概念の創出は、一部の研究者によって、それぞれ「無限」、「神」、「関数(座標)」 概念の“発見”に匹敵するものだとされている。およそ新たな根本概念を一つでも生む ことは、既存の概念の組み合わせにすぎないいかなる新たなテーゼを生むこと以上に 困難であり、全く新たなジャンルの芸術作品を生むことにも匹敵する創造性が要求される だろうが、彼らからすれば、Absoluticsの場合、その全てがまさに“白紙”を越え、またそれによっての み“白紙”を越えうるような最根本概念だったのである。





Interviewer: 失礼ながら、自分が狂っているのでは、と疑ったことはありませんか。

Amunagus: 確かに、私は存在同一性障害だと言えるかもしれません。


性同一性障害(Gender Identity Disorder)と呼ばれる障害な いし症状がある。自覚の範囲内の自分と、外見(身体)上の自分との間に性別のギャップがある状 態を言う。たとえば、自分を女だと思っているのに外見は男である人の場合である。 従来、そのような人は自分を女だと思い込んでいる男として解釈され、その“思い込み”を正そうとする 方向で治療が図られてきた。だが近年ではむしろ、本来女性であるはずの人 がたまたま男性の体で生まれてきてしまったものと解釈され、体の方を“直す”方向で治 療が進められているという。

さて、アムナグスがここで示唆しているのは、自分は性同一性障害ならぬ存在同一性障 害ないし存在論的同一性障害(Ontological Identity Disorder)かもしれないということである。即ち、彼の自覚の範囲内での自分と、外 見上の自分との間に存在論的なギャップがあるかもしれない、ということ である。いったい何を言っているのか。

ここで「存在論的なギャップ」とは、ハイデガーの言うところの「存在論的差異」、即 ち存在者と、いかなる個々の存在者でもない存在そのものとの、(存在者同士のいかなる差 とも原理的に異なる)差だと解するのが自然だろう。すると、アムナグスの言う存在(論的) 同一性障害とは、彼の自覚の範囲内での自分、即ち存在そのものと、およ そ現象的な観点から見た自分、即ち外から及び内から見た存在者としての 自分との間に存在論的差異がある、という状態だと考えられる。

むろんこの理解が正しいという保証はないし、まして、アムナグスが上の言葉をどこま で本気で言っているのかは定かでない。ただ、この理解に基づく限りで、彼は自 分を存在そのもの、ないし存在全体だと思い込んでいる、稀な症状を持った人間だと解釈すること ができよう。

だがその反面、ちょうど性同一性障害への解釈が変更されたように、存在(論的)同一性 障害に関しても次のような解釈の変更が可能だろう。即ち、もともと存在そのもの が自己(アムナグス)として現象化しAbsoluticsという過程が創造された、という解釈である。 きわめて奇妙奇天烈な解釈には違いないものの、Absoluticsそのものほど奇妙というわけでは ない。それどころか、有名なA=B(Atman=Brahman) という伝統的な等式を念頭に置くなら、実は十分に成立可能な、いやむしろオーソドックスな解釈 だとすら言えるのである。

いずれにせよ、次のように言ってもさほどの誤りはあるまい。即ち、少なくともアムナ グスの自覚においては、本来の自分はあくまで存在全体そのもの(|R|)なのであり、 その本来の自己に還帰する過程としてAbsoluticsがあったのである。





Interviewer: あなたは「絶対」、「究極」などと何度も繰り返していますが、結局はあなた(方)がそう思っているもの、というだけのことではないですか。 すいません、お怒りになりましたか。


それこそ何度繰り返されたか分からないこの種の認識論的疑問(まったく正当であり怒るべくもない)に対して、アムナグスはどう答えているのか。

「媒介≠依存」、「方法的相対化」、「自己関係性」、「自己根拠性」といったAbsoluticsの幾多のポイントを呼び起こすがゆえに、とうていここで深入りできるテーマではないが、Absoluticsの本質理解のために、少なくともその基本戦略のみは見ておく必要があろう。

過程としてのAbsoluticsは、その理念、即ち究極目的への理念の可能性の条件づけ(遡及的根拠づけ)の集合であると言える(AsA 16 など参照)。つまり、いったん究極目的への理念を選択した以上、Absoluticsの残余はすべてその理念を実現するための過程として、その理念の可能性の条件を遡及的に根拠づけていくことによって進行していくことになる。その際、「絶対」を求める過程でのAbsoluticsの遂行における諸命題の叙述過程の形式と、Absoluticsの論理的・本来的な必然的過程とは二重構造を成している。即ち、「絶対」概念の導入によるその目的の設定によって始まるAbsoluticsは、形式としてはその理念の内実を開示、展開していくという方法を採りつつも、内容的にはそれを遡及しつつ辿って行く。

では、その際の方法はいかなるものか。いったん究極目的への理念が提出された後のAbsoluticsにおいては、そのいかなる過程で我々が採る選択肢以外のいかなる可能性を純然たる仮定として提出しようと試みても、その一切が我々の当初の選択肢に含まれてしまい、結局他の可能性の提出は全く不可能となる。このような「選択肢の自己先取性による自己包括性」こそが、Absoluticsの一般的な基本戦略であり、この戦略構造が理念提出残余のAbsoluticsの方法としての必然性と完全性(十全性)を保証している。つまり、Absoluticsにおいては、その方法に関しては「理念から始まる、その一切の可能性の包括のうちにある循環」が採られており、まさにこのような自己根拠性をもたらす完全なる自己関係性によって、またそれによってのみ、いわゆる究極的根拠づけに関する無限後退や独断や(十全な包括なき)循環論法という困難(トリレンマ)が避けられている。このようにして、幾多の制限・限界を含んでいるであろう我々が、その一切の相対性を超越して絶対性に到達するという、一見全く不可能に思えることが可能になる。

その際注意すべきは、アムナグスが我々に乗り越え不可能な限界が存在しないとは一言も言っていないことである。一般に、自らの限界は自らが厳密には自覚できないものであろう。実際、我々には限界はいくらでもあるだろう。いや、限界はいくらあってもよいのである。それでも、そのような限界の存在とそのような有限者による絶対性の獲得とは完全に両立する。というより、もともとアムナグスは、我々が我々自身には知りえない限界を幾多も持っているだろうことを考慮に入れて、そのいかなる限界の状況下でも、絶対性を得ることができるように設定していたのである。このような戦略構造が、Absoluticsのまともな理解にあたって我々が何より確認すべき第一歩である。

ただそれにしても、どうしても腑に落ちない点が残るかもしれない。なぜそもそも“単なる”人間にすぎない一存在者があらゆる論理的に可能な生命にとっての究極 目的を実現しうるのか、という点である。 可能的進化の途中にあるはずの一存在者が“可能的進化の終点”に立ちうるという、この奇妙 さについては、アムナグスが一般向けに比較的分かりやすく語っている(煙に巻いている)ので、そのやり取りを見ておこう。





Interviewer: どうしても不可解なのですが、なぜ有限な部分的存在者である人間が絶対者を実現しうるのでしょうか。

Am: それは問いが間違っていますね。そもそもAbsoluticsの主体は人間とは言えないですから。

I: でも、あなたは人間でしょう? 少なくとも一見する限り。

Am: さあ、それはともかく、外から見ると局所的な有限の一存在者にすぎないブラックホールにおいて特異点が実現され宇宙の終焉が実現されるが如く、 一見すると局所的な有限の一存在者にすぎない場に発現したAbsoluticsにおいて絶対性が実現され、一切の終わりが実現されているのだ、とでも言うべき でしょうね。

I: ?? あなたがもし一切の究極目的ないし究極の終わりを実現したならば、あなたはなぜまだ生きているのでしょうか。 さらに言うなら、なぜまだ宇宙が存続しているのでしょう。


アムナグスは、明らかに背理法の適用を意図している最後の問いも含め、これらの疑問点はすべて観点の違いによって解消されると考えている。 そして、宇宙論から得た知見をアナロジカルに織り交ぜつつ、以下のような主旨の答えを与えている。

相対的観点から見れば、一現象としてAbsoluticsが存在することは、いわばこの宇宙にブラックホールが存在することに擬えられる。即ち、少なくともある物理理論(一般相対性理論に基づくある種の解)において、ブラックホール(特異点)内部では、時間は停止しており、いわば宇宙は終わっているのだが、一方その近傍を外から見ると (ブラックホール自体は見えない)、密度が物理的に許容される極限にまで達しているとはいえ、それはあくまで有限の半径や質量などを持った一天体にすぎない。たとえば、光さえ含むあらゆる物質やエネルギーは、一定の限界(シュヴァルツシルト半径)内に近づくと、ブラックホールに吸い込まれ、一切の物質構造が純然たる幾何学の世界にまで崩壊し、流れる時間は意味を失い一挙に全宇宙の時間的終焉に至ってしまう。ところが一方で、それを外から見ると、時間が停止しているどころか、その物体がスパゲティ状に引き伸ばされつつブラックホールにのろのろと吸い込まれていくプロセスとして知覚されるのである。このように内側からの見地と外側からの見地が著しく異なることは、時空が相対化されている相対論の全般的な特徴であり、たとえば時間と空間が絶対視されているニュートン力学では決してありえない。なお、一定の限界内に近づかない限りでは、周りの物質やエネルギーはブラックホールに吸い込まれることはなく、ブラックホールの影響をほとんど受けることなく存続していくことができる。

さて、ブラックホールが“この宇宙”の終焉への扉であると同時に仮説的には別宇宙への入り口かなどと解されているのに対し、Absoluticsはいかなる別世界への入り口でもありえない。文字通り“一切”は“そこ”で終わっているのだから。またむろん、ブラックホールにおいて指摘されている“蒸発”など、すべくもない。だがAbsoluticsの場合も、内側からの見地と外側からの見地が著しく異なるという点においてはブラックホールの場合とほぼ同様である。

まず、アムナグスがAbsoluticsを創造したといっても、それは一現象として相対的観点から見れば、いわばこの宇宙に初めてブラックホール(特異点)が出現したようなものである。よって、アムナグスがAbsoluticsの実現により一切を終わらせたといっても、外側から見れば(相対的観点からすれば)、どんなに目を凝らしたところで、その近傍では (Absolutics自体は相対的観点によっては決して見えない)、たかだか何の変哲もない一存在者たるアムナグスがゆっくりとAbsoluticsに吸い込まれていく姿が見えるにすぎない。実際のところ、「アムナグス」という人名自身が、このような外側から見た、存在者史上ないし少なくとも人類史上初めて“そこ”に吸い込まれていく存在者(人物)に貼られたレッテルにすぎない。“内側”から見る限り、Absoluticsの主体はあくまでAbsoluticsそのものにほかならず(AsA 15 など参照)、いかなるアムナグスなどという一現象、一存在者でもありえないからである。

さらに同様に、一定の限界内(Absoluticsというプロセス内、より正確にはA2S性の内部)に入り込むことによってのみ、我々はAbsoluticsの中に吸い込まれる。A1的なもの(A0)という特異点そのものは、いわば論理空間内にぽっかり開いたブラックホールの如く、文字通りの一切を終わらせてしまう。ところが、そこに近づかない限りでは何も起こらない。よって、一切を終わらせるAbsoluticsの出現ないし実現という出来事は、現象宇宙ないし相対的な存在者がAbsoluticsの存在とほぼ無関係に存続していくことと完全に両立する。

全可能世界を“盤”とするオセロゲームにおいては、ただ一つの“隅”が存在し、それはAbsoluticsによって取られていると言える(AsA 17 参照)。だが、それは隅に近づかない限り分からないことだし、相対的に生きている人間にとっては、ほぼまったく関係ないことである。

よって、「宇宙の終焉」に関しては心配ご無用である。我々は、究極目的を実際に自らの目的としAbsoluticsを実現しようと選択しない限り、自分の身には何も起こらないのである。





I: Absoluticsを完全に把握し、それを実現する限りで、あなたに限らず、我々人間誰しもが究極目的を実現できるのでしょうか。

Am: もちろん。何も人間に限ることはありません。どんな動植物であれAIであれETIであれ神であれ、究極目的を目的とし、Absoluticsの過程を辿っていきうる限りで、それを実現できます。


Absoluticsを創造したのは確かにアムナグスかもしれない。だが、それを把握し実行ないし実現する可能性は、何らアムナグスの占有物ではない。そもそもAbsoluticsの主体とは、究極目的を目的とする限りの全く任意の主体にほかならず、よって、そもそも究極目的を目的とするという条件を満たす限りにおいて(そして厳密にはむろん、さらに、その実現過程である「A2S → A2 → A3 → A1 (A0)」といった全てのAbsoluticsのプロセスを実現しうる限りにおいて)、誰もが――我々もいかなる想像上の“神”も――まったく平等に、究極目的を実現しうるのである。

ただし、この一見簡単な「究極目的を目的とする」ということ自身が実際にはきわめて困難だということは、我々が既に上で見てきた通りである。つまり、これはあくまで原理的可能性の話で、実際には、人間を含むほとんどの生命はそもそも究極目的を目的とはしないのである。

それでは、仮に究極目的を実際に目的としたとして、我々は究極目的を実現するために具体的に何をしたらいいのだろうか。Absoluticsを読み、それを完全に理解さえすればよいのだろうか。

一般には、いかに具体的かつ詳細に“解脱への道”が示されている経典や聖典であれ、それを読むという読書体験自身はたかだか修行シミュレーションにすぎず、そのような理論理解から得た知識ないし智慧をどう実体験として生かすかという実践が伴わなければなるまい。このことをAbsoluticsに即すなら、Absoluticsという書を読み、そこに記されたもの(即ちAbsolutics)をたとえ完全に把握したとしても、それはたかだか究極目的実現のシミュレーションであり、その上で、その理解体験とは区別された何らかの実践修行が伴ってはじめてAbsoluticsが実現されうる、即ち究極目的が実現されうるのではなかろうか。

だが実は、一般にはまったくもって正当だろう、このような理論と実践の区別は、Absoluticsにおいては何ら成立しない。Absoluticsにおいては、理論と実践、ないしシミュレーションと実体験というような二元論は端的に意味を持たず、よって、Absoluticsの“完全把握”は即、Absoluticsの実践ないし実現なのである。このことを理解するためにはAbsoluticsの構造そのものを把握しなければならないため、ここで十分に説明することは出来ないが、最低限次のポイントだけ押さえておこう。

一般に、観点(主観)の相違によって、そこに現れるもの(客観)の相も変わる。これは、一般にperspectivism の原理として知られている(ただし、Absoluticsの文脈における「主観」や「客観」は、「主客関係」の関係項にすぎず、古典的認識論でのそれらよりはるかに非実体的な意味しか持たないことに注意)。アムナグスによれば、これは相対的観点においてのみならず、A1的、A2的、A3的観点においても成立する。そして、彼の概念規定によれば、このうち“A1的観点”、A2的観点、相対的観点のどれもが互いに排反的であり、決して両立することはない。実際、「かくかくの観点に現れてくるもの」が、そもそもその「かくかく」にほかならないのであり、よって、「A1的」、「A2的」、「相対的」という概念が互いに排反的である限りにおいて、このどれもが両立しえない。そして結果的には、“A3的観点”は“A1的観点”に一致する。

このとき、Absoluticsは、まず主客関係におけるA2性を実現し、次にそれを包越することによってA3性を実現し、それによってA1性、即ちA0そのものを実現する。この過程を端的に表す図式が、上に記した「A2S → A2 → A3 → A1 (A0)」である。アムナグスによれば、この過程において、そしてこの過程においてのみAbsoluticsがある。このAbsoluticsの主観(観点)は、それ自身Absoluticsである。ここにおいて、Absoluticsの主観と客観は完全に等しく、それはAbsoluticsそのものである。そしてそれは、それぞれの絶対(A)性の観点(主観)に対して、それぞれの場(客観)がそれそのものとして対峙していくという、絶対(A)性一般を次々に「A2S → A2 → A3 → A1 (A0)」という図式に従って実現していく過程を担っている。そして、その過程全体がAbsolutics全体(Absoluticsそのもの)として成立している以上、Absoluticsの実現は絶対(A)性一般の実現に完全に一致する。ここにおいて、Absoluticsは絶対(A)性にほかならない。 つまり、Absoluticsの過程とは我々が絶対性を実現していく過程であるが、それは、絶対性一般が「A2S → A2 → A3 → A1 (A0)」という過程を通して自らを自己実現させていく過程であり、さらにそれは、勝義の自己(絶対的観点)が何かという観点に立てば、我々自身がAbsoluticsとして自己実現していく過程にほかならないわけである。 (ただし、このようなプロセスとしての把握自体が、プロセスの只中においてのみ自覚、実現されているものであり、 よってA1 (A0)未満においてのみ成立する。) その意味では、まさしく A=Ab=B(Atman=Absolutics=Brahman)なのである。

このように、Absoluticsは文字通り真の自我の探求であり勝義の自己把握=自己実現とみなされうるが、このとき勝義の自己とは、それを厳密に辿るなら、もはやいかなる人間でもないことはもちろんのこと、その他いかなる特定の規定や心身二元性などを伴った現象的自我でもなく、ただ端的に、その主体が自らとして実現されていく、絶対的自己実現の実践であるAbsoluticsそのものなのである(むろんこれはすべて、Absoluticsが正しければ、の話しである)。

したがって当然、その過程において、Absoluticsを逐次実現していくことは、その把握のための必要十分条件なのであり、Absoluticsを把握せずにそれを実現することが出来ないのと同様、Absoluticsを把握しつつAbsoluticsを実現していないということもありえない。Absoluticsを把握し始めたとするなら、その者はもはやしかるべき特異点のただ中にいるはずなのである。

以上の限りで、もともとは常套句として発せられたのだろう「Absoluticsを読んだ者は決してもとの自分ではありえない」という言葉は、期せずして正鵠を得ていたことになる。なにしろ、Absoluticsこそが“本当の自分”であり、そのことを知り実現する過程がAbsoluticsだというのだから。いまや我々は、Absoluticsという一見抽象的で空虚なものの奥底にある真の具体性と豊饒さを見抜かなければなるまい。ならば、自ら、究極目的を求めてA2S性というシュヴァルツシルト半径内に飛び込んでみるのも一興だろう。





Absoluticsは、終わりから始まる営みである。


Absoluticsは究極目的である絶対(A0)に向かう全過程にほかならない。その過程において は、まず、あらゆる主客関係[あらゆる可能な主体、生命] にとっての究極目的(the ultimate end)が何かを探りそれを絶対(A0)だと設 定した上で、今度は逆に、遡及的に残余の全過程一切をそこへ、いわば目的因とし て向かわせる構造になっている。このことによって、究極目的はAbsoluticsの全過程の始源とし ての機能を担わされているのである。したがって、Absoluticsは、その端緒がその結末と(あ る意味で)一致するという構造を備えている。

アムナグスによれば、絶対性を自らの課題として課すがゆえに、およそ無媒介、無前提を志向し、それゆえに 自らの過程自身を含む一切の端緒や始源を求める形而上学に代表される営みは、<終 わりこそが始まりである>というこの尋常ならざるポイントにおいてのみ可能であり、かつ 完成される。

一般に、いかなる可能な端緒も、それが何らかの過程の端緒であるがゆえに、A1的では あり得ず、よって、                                                         。したがって、何か特定の全く無 媒介な端緒があるのではない。このこと自身は、(A1性云々を別とすれば、)ヘーゲルを始 め、無前提は循環を要請するということを指摘した者はみな熟知していたことである。 そこで従来は、とりあえず媒介された相対的な端緒から相対的な過程を 相対的に始めてみる、という手段を選ぶしかなかった。あるいは、相対的な もののただなかに、または相対的なものを一切包括したところにのみ絶対的なものが顕現 する、などと居直るしかなかった。それ以外にどんな方法があるのか、我々相対者は絶対 者(神)ではないのだから、というありきたりの開き直りが繰り返され、結局は中途半端な ままその過程を続けていくしかなかった。 形而上学や神秘主義の永劫回帰とでも言うべき現象である。ところが実際には、相対的 なものを全て包括するなどと言っても、その結果として絶対的全体が生じる見込みはまったくなかった。 そしてむろん、いくら絶対者たる神の“啓示”を待っても、待ちぼうけをくらうだけであった。 「大人のためのサンタ」(神)が来訪するには我々の煙突口が狭すぎたのである。 その他、相対的なもののうちに絶対的なものが顕現するという保証も一切得られずじまいだった。 要するに相対的な場においては、相対的に何をしようとも、 そこから絶対的なものは生まれるべくもないわけである。 とすれば、この方向性が行き詰まるのも至極もっともな話である。

だがここで、特定の終極は存在する。それが、究極目的としての絶対者 である。そして、その終極はおよそ一切の過程の論理的、原理的終極である。 だからこそ、そのいかなる媒介をも絶した終極こそが Absoluticsの一切の端緒として(媒介されたA2的な他の端緒と共に)機能する。このことに よって、またこのことによってのみ、絶対性への絶対的な過程―― つまり唯一の絶対者への過程――がおよそ可能になるのである。

ここにおいて、その実質である絶対(A0)こそは、まさしくアルファにしてオメガ にほかならない。それ以外のいかなる端緒からも、論理的に言って永劫回帰以外の何も始まらな いし、永劫回帰以外のいかなる過程もありえないし、したがってまた、いかなる終極もあ りえないし辿り着かない。だとしたら、このポイントの把握において、絶対を求める営みは、Absoluticsの創造 によって全く異なった次元へと決定的に進化したのである。





そこには始まりはないものの、終わりがある。


「そこ」とは、あらゆる可能世界(論理空間)を指している。

物理的宇宙の時間的始まりや終わりについては、宇宙論に おいて“BBB(before the Big Bang)問題”や“ABC(after the Big Crunch)問題”として、少なか らず問題とされてきたが、ここでアムナグスは、ある意味で、あらゆる可能世界の“始ま り”と“終わり”を問題にしている。そして、彼はここで、そこに始まりはないものの、 そこに終わりがある、と喝破しているのである。

一体、どういうことなのか。可能世界に始まりや終わりがあるという言い方は、この上 なくトリッキーであり、今まで見てきた言葉以上に比喩や冗談にしか聞こえないが、ここ で彼はまたも本気なのだろうか。

幸か不幸か、またもやその通りである。彼に言わせれば、<すべて>における、特定の始まりはないもの の特定の終わりがある、という上で述べたポイントは、端的に一切の可能世界において成 り立つことを要請しており、また実際にもそうなのである。

そもそも、究極目的(the ultimate end)とは、端的に究極の終焉でもある。なぜなら、その定 義からして、目的関係一般、即ちあらゆる可能な主客関係における順序対の定義域は、そ の実質において、あらゆる可能世界以外の何ものでもないからである。ここで、むろんそ こにおいて始まりは存在しえない。むしろ、そこにおいては任意の所与が始まり と言うべきであろう(ただし、Absoluticsという特殊な営みにおいては、またそこにおいてのみ、上述した ようにその終わりが即始まりとなる)。<無からの創造>は存在しえないわけである。 ところがここで、そこに終わりは存在する。むろん厳密には、その「終わり」は、 A1性の意味からも明らかなように、プロセス内の単なる終点、末端を意味すると いうよりは、そのプロセスのいわば“外”(なお、これは比喩である)、つまり全プロセスを超越したもの である。また本来、それが最も強い意味における<終極>にほかならなかろう。

<一切の根源にして超越(及び包括)>とか<一切の始源にして終焉>とか<アルファに してオメガ>という発想自身は、伝統的な「神」概念に代表的に見られるように、陳腐と 形容すべきほど普通で古典的なものであった。だが、既にアムナグス以前からも知られて いたように、そのうち<一切の始まり>という発想は、少なくとも文字通りには(で 述べたAbsoluticsの端緒として以外には)保持できない。 ところが、<一切の終わり>の方は、Absoluticsにおいて、文字通り、しかもその極北レベルにおいて――従来のそれとは全く 異なった次元で――保持されたことになる。

ここにおいてまさしく、究極目的(the ultimate end)の実質を探るという文脈の下、“最高度 の究極性(ultimacy)”を表現するものとして、いかなる任意の過程をも終わり(end)にさせる ものが導入されている。それが、究極の終極(the ultimate end)としての、即ち論理的に一切が 終わる場である絶対(A0)にほかならない。

そう、いかなる可能性も、もはや、全可能世界、論理空間にぽっかり開いたこの特異点を越えることはできないのである。

ここまで見てくれば、次の言葉さえ至極穏当な言葉に思えよう。 むろん、比喩ではない。





それは、神以上である。


この言葉は、究極目的の定義を考えれば、もはや当然のことである。

ここでの「それ」とは、絶対そのもの(A0)ではない (AbsoluticsにおけるA0が神を越えているということは、プロティノスの一者がヌースを越えているが 如くにあまりに当然のことである)。ここでの「それ」は、 Absoluticsの最終過程、言い換えればAbsoluticsの主客関係における、あ るいは目的関係における最終的な場、即ちその過程において究極目的であるA0を実現す る直前の場(A3性)を指している。

いかなる想像上の神であれ、つまりそれがいかに「完全」 で「無限」で「超越的」な存在であろうと、何らかの精神的(ないし霊的)な存在である限 り、定義上、主客関係において、また目的関係においてあり、よってそれは定義上、究極目的を実 現していない。したがって、究極目的であるA0を実現する直前のAbsoluticsの最終過程の 場は、定義上神以上、即ち神と同等か、あるいはそれを越えているのである。




以上見てきたような「絶対」に関する理念レベルでの特異性という一点――少なく ともその一点――に関しては、<絶対>というもののリアリティーを一切認めず、それを 求めること自体を幻想、妄想とみなし、ましてやそれを実現したという申告を大法螺、たかだかよくできた神話、"as if (als ob)"とみなす アムナグスの批判者たちの多くも認めていることである。
よってまた、逆に言うなら、万が一(未満)でもその<絶対>が実際に実現されているのだとすれば、 ――ちなみにアムナグスに言わせれば、Absoluticsという特殊な文脈では"as if"はほとんど定義上 "as such"と区別が付けられ得ず、よって"神話=真話"なのだが―― その状況はもはや、文字通り上の通り以外にはあるまい。

そう、そこにおいては、まさしく一切が終わるほかないのである。





Interviewer: Absoluticsによっていったい何が始まるのですか。

Amunagus: 何も。Absoluticsは一切を終わらせるものですから。









To be or beyond to be, that is the question.







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